器用貧乏暇なし

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雑記のつもりでしたが,スポーツに傾倒しています.

スポーツ観戦に何を求める

こんにちは,しこしこ亭うどん(@shikoshikotei)です.

  

今回はスポーツ観戦に関するネタです.

 

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スポーツ観戦は好きか

  僕はスポーツ観戦がとても好きだ.自分がやっていた野球はもちろん,サッカーやラグビーも観る.特に野球やサッカーはある程度知識があるので,戦術的な面も考えながら観戦している.

  このように様々なスポーツが日々行われているが,中でもW杯やオリンピックなどの国際大会では国内の注目度も非常に高く,普段それらのスポーツを観ない人もオリンピックだけは観るということはよくあることだ.かくいう自分も,冒頭でスポーツ観戦が好きだと言っておきながらオリンピックのときしか観ないスポーツはいくつもある.

  しかし,自分も含め多くの国民が日本代表の勝利や活躍を期待し,応援するという点に間違いはないだろう.

 

 

代表選手を応援する心理

  オリンピックやW杯で,国民の大半は選手と知り合いではない.つまり,自分と選手との間には日本人であるということ以外接点がないのにも関わらず,なぜ我々国民は日本人選手の活躍に興奮するのだろうか.

  これはナショナリズムであり,同じ国籍の選手に対して共感や,感情移入を無意識にしているからだ.こうして僕たち日本人は,W杯での日本の勝利に熱狂し,オリンピックで日本人選手が金メダルを獲得する姿に喜びを感じている.

  スポーツとナショナリズムの関係は僕も興味があるトピックであるが今回の主題からは脱線するため機会があれば別の回で書いてみようと思う.

 

 

「感動をありがとう」への違和感

  注目度の高い国際大会で日本人や日本チームが活躍すると,報道では「○○選手,感動をありがとう」とか「日本代表,感動をありがとう」といった決まり文句を目にする.

  僕は以前からこの言葉に違和感がある.僕自身が日本の活躍に興奮しないわけでは決してないし,とても感動しているのも事実ではあるが,「感動をありがとう」にはどこか上から言っているような,観客である我々の傲慢さのようなニュアンスを感じる.

  選手のプレーや勝利に感動するのは自分自身であって,選手から感動を与えられているわけではないというのが僕の考え方だ.

  傲慢さというのは,この「感動をありがとう」に「選手が頑張ってくれたから私たちは感動出来た」というニュアンスを感じるからだ.

 

  その前提として,日本中が国際大会に便乗して「みんなで感動しようよ」みたいな空気を作りだしているような印象を受ける.

 

 

ロシアW杯 日本対ポーランドで感じた意識の違い

  2018年,サッカーのロシアW杯でのグループステージ3戦目,日本はポーランドに1-0負けているにも関わらず,後半自陣でボールを回し,試合を終わらせようとした.同時刻に行われていたコロンビア対セネガルの途中経過からこのまま試合を終わらせることが一番決勝T進出できる可能性が高いと判断したからだ.

 

  それに対し日本国内では,「スポーツマンシップに欠ける」とか「あんなやり方で決勝Tに進出してもうれしくない」といった批判が聞こえた.僕はこれらの批判が全く理解できなかった.もちろん逆転勝利で決勝T進出を決めることがベストであり理想的だが,物事は理想通りにはいかない.最適解を考えたときに,試合を終わらせる,ということがベターだと判断したのだろう.

 

  「スポーツマンシップに欠ける」というのは対戦相手へのリスペクト,相手に敬意を払うといったことができていない状況であると思う.その点あの試合では日本が自陣でボール回しを始めてからポーランドもボールを奪おうとしてこなかった.日本の意思だけでなく,ポーランドも試合を終わらせることに同意しているような状況であった.

  「あんなやり方で決勝Tに進出してもうれしくない」というのは選手の心情を全く分かっていない.選手はW杯に相当思い入れがあるはずだし,結果がすべてのプロスポーツの世界だ,どんな形であれ,一つでも上のステージに進みたいに決まっている.

 

  一方,プロスポーツにはエンターテインメントの面がある.その点あの試合は観客にとっては退屈な試合であったことは事実だ.しかし,日本代表が目指していたのはあくまで決勝T進出である.「スポーツマンシップ」には最後まであきらめないといった意味もあると思う.だが,決勝T進出という勝利を掴み取るためにポーランド戦を1-0の敗戦で終わらせるという選択をしたのだから僕の目には勝負を放棄したようには見えなかった. だから「あんなやり方で~」という批判は勝負をかけた判断をした選手や監督に対して失礼だと感じた.

 

  と前置きが長くなったが,僕はこの一件でスポーツをみる目線の違いを感じた.

  上記のような批判をしていた人には,その瞬間での感動を求めていた人が多いのではないだろうか.つまり今見ている試合が面白いかどうかを重要視するということだ.そういう視点で見ているとあの試合のような采配には批判的な意見を持つのかもしれない.言い換えると,プロスポーツのエンターテインメント性をかなり重視しているとも言えるかもしれない.

  一方,僕を含めあくまで決勝T進出こそが勝利だと考えていた人は,アスリート目線で観ていた人が多いのではないだろうか.つまり選手目線で,ベンチの一員に近いような感覚だ.もちろん出場の可能性がある本当のベンチ入りメンバーとは状況が異なるが,決勝T進出という目標を選手と共有しているような意識があれば上記のような批判的な感情は生まれにくいのではないか.

 

 

なぜスポーツを観て感動するのか

  スポーツ選手がファンに向けたメッセージを言うとき,「ファンのみなさんに感動を与えられるよう~」といったことが言われる.これはすばらしいことだし,もし僕が選手の立場だとしても言うのではないだろうか.

  しかし,選手はプレーしながら観客を感動させようとしている訳ではない.痺れる試合展開やピンチを救うファインプレーに観客は沸き,感動するのだ.少なくとも僕はスポーツのそのリアルな緊張感や勝利への執念に心を奪われている.

 

  冒頭で述べたように僕は「感動をありがとう」に違和感がある.しいて言うなら「感動しました」ではないだろうか.

  それ以上に感動,感動みたいな空気が嫌いなのかもしれない.スポーツ観戦の楽しみ方は人それぞれだし,僕はスポーツファンとして,一人でも多くの人がスポーツに関心を持ってくれればいいなと思っている.

  僕は天邪鬼のところがあるため,スポーツに絡めて視聴者を感動させよう,みたいな意図のある映像は好きではない.あくまでスポーツのリアルな緊張感が好きなのだ.これはスポーツをやっていたからそう思うのかもしれない.

 

 

  最後に,僕は日本のスポーツ界がどんどん盛り上がってほしいとおもっている.まだまだ勉強不足だがこれからもスポーツに関して書いていこうと思う.

 

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以上です!最後まで読んでいただきありがとうございました。