器用貧乏暇なし

器用貧乏暇なし

雑記のつもりでしたが,スポーツに傾倒しています.

Day 1.1 ジムニー、ガムテ

 


こんにちは,しこしこ亭うどん(@shikoshikotei)です.

 

f:id:shikoshikoteiudon:20190904113041j:plain



 

以前から旅の記録を何かに残してはおけないだろうかと模索していたのですが,「g.o.a.t」という縦書き対応のサービスを見つけましたので,そちらの方で旅の記録を文章として書き残していこうと思います.

 

前回の「Day 0」に引き続き,今回は1日目1本目「Day 1.1」です.

ぜひご一読ください.

 

リンクはこちらに載せておきます.

https://shikoshikoteiudon.goat.me/kJcUU9qc0g

「Day 1.1  ジムニー、ガムテ」 (Written by shikoshikoteiudon)

 

 

【お知らせ】Twitterのアカウントを作成しました.是非フォローお願いします.

 

 以上です!最後まで読んでいただきありがとうございました。

旅の記録を書き残そうと思い立ちました.

 


こんにちは,しこしこ亭うどん(@shikoshikotei)です.

 

f:id:shikoshikoteiudon:20190903154204j:plain

 

以前から旅の記録を何かに残してはおけないだろうかと模索していたのですが,「g.o.a.t」という縦書き対応のサービスを見つけましたので,そちらの方で旅の記録を文章として書き残していこうと思います.

 

早速,書き始めてみましたのでぜひご一読よろしくお願いいたします.

 

リンクはこちらに載せておきます.

https://shikoshikoteiudon.goat.me/kECN9bI81O

「Day 0  前夜」 (Written by shikoshikoteiudon)

 

 

【お知らせ】Twitterのアカウントを作成しました.是非フォローお願いします.

 

 以上です!最後まで読んでいただきありがとうございました。

スポーツとナショナリズム

 

こんにちは,しこしこ亭うどん(@shikoshikotei)です.

 

今回はスポーツとナショナリズムに関するネタです.

 

 

f:id:shikoshikoteiudon:20190318081813j:plain

 

 

国際化-スポーツの発展

 

 現在,多くのスポーツにおいて国際大会が行われている.国際大会が行われるということはそのスポーツが世界規模で行われ,世界中にプレイヤーがいるということであり,そのスポーツの発展を意味している.

スポーツの国際大会においてチームの単位となるものは基本的に国単位である.代表選手は国民の代表としてその国の国旗を背負いプレーをする.そうして選ばれた自国の代表選手に対して,我々は無意識のうちに仲間意識を感じ,応援している.これはスポーツにおけるナショナリズムと言えるだろう.

 

※以前書いたスポーツ観戦についての記事で,代表選手を応援する心理について少し触れているので読んでいただけると幸いです.

 

shikoshikotei.hatenablog.com

 

 

ナショナリズムとは

 

 自国の代表選手を応援するといったように,同じ国籍を持つ者に対する共感や感情移入は一般的にナショナリズムと言われている.

日本人の多くは直接会ったことがない代表選手を同じ国籍を有するというだけで応援しているが,同じ東アジア圏という理由で中国代表を応援する人は少ない.

この理由として挙げられるのは「日本」という単位が日本人にとって拘束力が強いからというものである.つまり,日本人の多くは,学校や会社,市区町村,都道府県,日本(国),アジア…という枠組みに所属しているがそのなかでもとりわけ「日本」という単位へのこだわりを持っているということである.

 スポーツにおいてはその単位が国家とは一致していないケースもある.例を挙げると,英国は国連では1つの国家とされているが,FIFAではイングランドスコットランドウェールズ北アイルランドと4つの協会が所属している.このようなケースがあるため,国連加盟国数が193であるのに対し,FIFAの加入数は211である.(2016年9月)

 また,FIFAに限らずIOCも国連加盟国でない地域を承認することがある.このように国際スポーツは本当の国家ではない地域や集団を疑似的な国家として世界に承認を取り付ける,という作用を待っている.

 

 

スポーツとナショナリズムの結びつき

 

 スポーツとナショナリズムがなぜ結びつくのかということだが,その理由としてこんなことが言われている.

ナショナリズムには自分たちが共同体を形成しているという共同意識と,その共同意識を再確認するために他者に対し排他的,攻撃的な意識という両極端な意識を持っている.一方スポーツでは,「これは遊びに過ぎない」というメタ・コミュニケーション的メッセージを内包していることと,ときに模擬的な戦争と言えるほどエキサイトすることがあることという両極端な面を持っている.(笹生 2017)

 このように,スポーツとナショナリズムは両極端な二面性を持つという共通点により結びつきやすいと言われている.

 

 

「日本人選手の組織力」という報道

 

 国際大会などで日本人選手,日本代表チームに対し,報道では「日本人選手の組織力」といった表現がよく見られる.この表現にもある意味ナショナリズム的な要素が含まれている.

 「日本人選手の組織力」という表現により,驚異的な身体能力を持つ他国の選手に対する劣等感を埋め合わせていると言える.劣等感を埋め合わせるために「日本人の組織力」という表現を用いて,日本人は身体能力で劣る部分を組織で補完しているというストーリーを編み出している.この結果「日本人」への自己同一化が行われる.

 

 

過去と戦い続ける代表

 

 スポーツでは過去の記録が重要視されている.陸上や競泳では世界記録が更新されるかどうかが注目される.記録更新への戦いは過去との戦いとも言える.

 しかし,これとは異なる形で過去の記録が取り上げられるのはサッカーなどの団体競技である.サッカー日本代表が他国の代表と対戦する際に,過去の対戦成績が何勝何敗であるかが報道されるが.現在の代表選手のほとんどはその過去の試合には出場していない.

つまり過去の対戦成績というのは他人の成績である.にもかかわらずなぜ過去の対戦成績が持ち出されるのか.それは同じ代表のユニフォームを着ている人物という点で同一視されているためである.つまり,世代が変わり,実際には別人であるが,「日本代表選手」という意味で同一化がされている.

 このように代表チームでは構成するメンバーが入れ替わってもチームとしての記憶はリセットされず,応援する国民にとって共通の記録が更新され続けている.

 

 

スポーツ・ナショナリズムと政治的ナショナリズム

 

 ナショナリズムには政治的な一面がある.しかし,政治的ナショナリズムと,スポーツ・ナショナリズムは一緒くたに考えてはならない.

 若者がスポーツにおけるナショナリズムを抵抗なく受け入れていることが政治的な影響を生むのではないかという懸念がある.しかし,スポーツの場面で起こるナショナリズムは,スポーツの場面に限定されるべきである.

 スポーツにおけるナショナリズムを表す表現として,「90分のナショナリズム」や「9イニングの愛国者」という表現があるようだ.

 スポーツの素晴らしさには,たとえ国家間が国交を断絶していてもスポーツではお互いをリスペクトしあい,戦えるということがある.オリンピックをはじめ,国際スポーツ大会は国家間の政治的な関係や,国際情勢には影響されず,スポーツと平和の祭典として行われ続けるべきである.

 

 

 文献 

笹生心太(2017) スポーツはなぜナショナリズムと結びつくのか:日本における先行研究の批判的検討 東京女子体育大学東京女子体育短期大学紀要 第52号 pp.91-101.

 

【お知らせ】Twitterのアカウントを作成しました.是非フォローお願いします.

 

 以上です!最後まで読んでいただきありがとうございました。

プロ野球14球団構想

 

こんにちは,しこしこ亭うどん(@shikoshikotei)です.

 

今回はプロ野球のエクスパンションについてのネタです.

 

f:id:shikoshikoteiudon:20190311033500j:plain



 

 

プロ野球16球団構想

 

 「プロ野球16球団構想」をご存知だろうか.現在プロ野球は12球団で行われているが,4球団を新設し,16球団にしようという計画だ.この構想が実際に議論されているということは球団を増やすメリットがあるということだ.新球団を増やすことにはどんなメリットがあるのだろうか.

 

 

エクスパンションのメリット

 

地方の活性化

 まず,メリットとして挙げられるのは地方の活性化だ.地方の活性化には地方でお金を使ってもらう必要がある.

その点現在のプロ野球は球団が首都圏に密集傾向にある.広島のような元々地方に本拠地を置く球団や日本ハム(北海道),楽天(宮城),ソフトバンク(福岡)といった地方都市に移転した球団もあるが,5球団(巨人,ヤクルト,DeNA,ロッテ,西武)が首都圏に本拠地を置いている.

交通アクセスや集客の面を考えると無理はないが,地方に人気球団があれば地方経済の活性化につながるだろう.実際広島の本拠地であるマツダスタジアムは毎試合満員だ.

 地方での試合では県外から訪れた観客が消費行動をする.これは地方経済の活性化と税収の増加が見込める.また,既存の球場を本拠地として利用すれば球場運営に関してもメリットとなるのではないだろうか.さらに,地域の認知度向上にもつながるはずだ.

 実際Jリーグでは地方創生に大きく寄与している.1993年のJリーグ開幕時には13クラブであったが,2018年シーズン終了時にはJ1,J2,J3で合計54クラブにまで増加している.この54クラブは全国に点在しており,首都圏,関西圏へ密集している訳ではない..これらJリーグのクラブは地方に経済波及効果をもたらしている.

 

f:id:shikoshikoteiudon:20190311032311p:plain

NPB12球団の本拠地球場がある都道府県

f:id:shikoshikoteiudon:20190311032434p:plain

J1,J2,J3のクラブがある都道府県(54クラブ)

 

野球人気や競技人口を支える

 身近にプロ野球を感じることは野球ファンや競技人口の下支えとなるだろう.今まで球場に来ることができなかった人たちが球場に足を運ぶことが確実に増える.そこで新たなプロ野球ファンが生まれるかもしれない.

 また,子供たちにとって身近にプロ野球選手がいることで野球に興味を持つ子供たちが増える.これは競技人口の増加につながるだけでなく,将来のプロ野球ファンを確保する上で非常に重要な要素だ.

 プロ野球のテレビ中継が減り,子供たちが身近にプロ野球に触れる環境がない現在では,球場に足を運んでもらうことが必要だ.           

 

 

エクスパンションを阻むもの

 

 ここまでメリットを述べてきたが,エクスパンションを実現させるには多くの障害が存在する.特に大きな障害と言える問題は現存12球団の反発だ.

 プロ野球を始めプロスポーツは興行であり,ビジネスとは切り離せない.新球団が設立されることで収益が分散し,既存の球団の収益が落ちてしまう可能性がある.しかし,野球界全体を考えたとき,エクスパンションには多くのメリットがある.日本の野球界のトップであるNPBの球団には野球界全体の発展といった視点での球団経営をしてほしい.

 

 

新設候補地

静岡

 ここからは僕が考える球団候補地だ.まずは静岡県を挙げる.静岡県は10番目に人口が多い県(2018年)であり,東海道新幹線東名高速など日本の大動脈が通っているため交通アクセスも問題ない.

 そして本拠地球場候補は静岡市草薙球場だ.年に数試合プロ野球の公式戦も行われている球場であるからそれなりの収容は確保できる.(21,656席)

 

新潟

 続いての候補地は新潟県を挙げる.現在北信越にはNPB球団が存在しない.この空白地帯を埋めることこそ球団新設のメリットだ.新潟市政令指定都市であり上越新幹線もある.

 そして本拠地球場候補は新潟市HARD OFF ECOスタジアム新潟だ.ここも収容人数はそれなりに確保できる.(約30,000人)

 

四国

 続いては四国を挙げる.四国にもNPB球団は存在しない.人口,アクセスの面で上記の2地域よりも劣るがやはり空白地帯である四国に1球団置きたい.本拠地は四国で最大の都市である愛媛県松山市(人口51.49万人(2015年))が妥当だろう.

 そして本拠地球場候補は松山市坊っちゃんスタジアムだ.収容人数も確保できる.(約30,000人)

 

4番目の候補地

 ここまでの3地域は多くの人が候補地として挙げている.4つ目として沖縄を挙げる意見もあるが交通アクセスと人口の面がかなり厳しい気もする.僕が考える4番目の候補地は,沖縄,京都,長野がある.しかし現時点では上記の3地域(静岡,新潟,四国)に比べ不安要素が多いというのが本音だ.

 

 

14球団構想

 今回の記事のタイトルは「プロ野球14球団構想」であるが,ここまで触れてきたのは16球団構想だ.これには理由がある.

 理想は16球団へのエクスパンションだが,いきなり4球団を新設するのは簡単なことではない,球団経営の面だけでなく戦力差といった問題も生じてくる.実際2005年に新規参入した楽天のこのシーズンの成績は38勝97敗という散々な結果だった.

 そこで,最終的には16球団が理想ではあるがその第一段階として2球団新設による14球団構想を提唱したい.候補地は,静岡,新潟,四国のうちのどこか2地域ということになるだろう.セパ両リーグに7球団ずつ所属する形式で,同一リーグで6球団が試合をし,残りの1球団同士で年間を通して交流戦を行うというシステムだ.現在MLBではアメリカンリーグナショナルリーグにそれぞれ15球団が所属しこの形式を採用している.

 

 

 NPBの球団には野球界全体の発展という使命があるはずである.新球団の設立には課題も多く立ちはだかっているが,地域経済の活性化や野球人口減少を食い止めるためにプロ野球は大きな力となるはずである.僕も野球ファンの一人として日本の野球界を盛り上げることに少しでも貢献できればと思う.

 

 

【お知らせ】Twitterのアカウントを作成しました.是非フォローお願いします.

 

以上です!最後まで読んでいただきありがとうございました.

球数制限は高校野球を変えるか

 

 

こんにちは,しこしこ亭うどん(@shikoshikotei)です.

 

 

今回は高校野球の球数制限についてのネタです.

 

f:id:shikoshikoteiudon:20190304004355j:plain



 

 

 

一石を投じた新潟県高野連

 

 新潟県高野連は昨年末,春季県大会から1試合100球の球数制限の導入を決定した.これに現在日本高野連は待ったをかけている状況だ.この理由として「部員不足の加盟校が多い現状では慎重であるべき」「勝敗に影響を及ぼす規則については全国で足並みを揃えて検討するべき」といったことが挙げられている.

 

 

連投や完投は美しくない

 

 高校野球は学生スポーツとしては異常ともいえるほど注目度が高い.これ自体悪いことだとは思わないし,一生懸命に取り組んできた選手にとって,大観衆の前でプレーをすることがこの上ない幸せであることは間違いない.だが選手はあくまで高校生だ.興行的な要素があるプロスポーツと一緒くたにしてはならない.

 前回書いたスポーツ観戦の記事と関連があるかもしれないが,世間は高校球児に自分たちの理想像を押しつけているのではないだろうか.坊主頭で軍隊のような入場行進をし,毎日朝から晩まで練習をするというようないわゆる「高校球児らしさ」を消費したがっているように感じる.


shikoshikotei.hatenablog.com

 

 その一つとして,一人のエース投手が連投,完投するということが美しいとされる一面があるのではないだろうか.まずこの意識を捨てなければならない.連投や完投は美しいものではない.痛々しいものだ.僕は猛暑の中連投を続ける投手を見ると心配で仕方がない.

 

 

球数制限のメリット

 ここでは球数制限のメリットについて触れる.まず,第一に投手の身体を守れるということだ.というかメリットはこれに尽きる.夏の甲子園のような過酷な環境での連投や完投が投手に負担をかけていることは明白である.無理な投球数で選手生命が短くなったというような悲劇を生み出さないために球数制限は効果的だろう.

 

球数制限のデメリット

 

 反対に,球数制限のデメリットだ.デメリットと言っても,選手の身体のことを考えたときにデメリットはない.150球,200球投げるよりも100~120球におさめる方がいいに決まっている.だから僕が思う理想は,球数制限を定めなくても選手あるいは監督の意思で100程度を目処に交代することだ.

 投げ過ぎは良くないということがこれだけ広まった現在は,練習や練習試合であれば上記のような理想に近づいているであろう.しかし,高校野球の大会はトーナメント方式で行われる.

 基本的に球数制限導入に賛成の立場である僕が完全に賛成しきれていないのは高校野球の大会方式がトーナメントであるからだ.一発勝負の負けられない試合が続くトーナメントではどうしても一人のエースに頼らざるを得ない.

 

 

守備力≒投手力

 

 野球というスポーツは守備時において圧倒的に投手の責任が大きい.極端な例を挙げると,いくら投手以外の8人が全員ゴールデン・グラブ賞の選手でも投手がめった打ちを食らったり,四球を連発したりでは失点してしまう.逆に守備は素人でも投手が三振を取り続ければ失点しないのが野球である.

 さて,僕が球数制限に完全に賛成しきれない要因であるが,それは選手層が薄い公立高校が勝てなくなってしまうという懸念だ.甲子園常連の強豪私立ではほかの高校ならエースになっているような投手がゴロゴロいるだろう.しかし,いわゆる普通の公立高校にそのような選手層はない.球数制限が導入された場合,強豪校がエース級の投手を継投してくるのに対し,なんとか一人で踏ん張ってきた投手を変えざるを得ない状況になってしまう.

 もし自分が球数制限により降板を余儀なくされた投手だったら「ルールだから」と納得できるだろうか.この点を踏まえると「部員不足の加盟校が多い現状では慎重であるべき」「勝敗に影響を及ぼす規則については全国で足並みを揃えて検討するべき」といった日本高野連の意見も間違ってはいないように感じる.

 

 

複数投手制の時代へ

 

f:id:shikoshikoteiudon:20190309093634j:plain

NPB リーグ別年間完投数の推移


 上のグラフはNPBの完投数の推移である.このグラフが示すように現代野球は投手の分業制が進んでいる.この流れは,少なからず高校野球にも影響を与えている.近年複数の投手を併用しながら勝ち上がる強豪校は増えている印象を受ける.これは複数の投手で戦うことのほうが合理的だからだ.

 プロ野球の世界では9人で1試合を戦う時代は終わったと言っていいだろう.先発,中継ぎ,抑えと細かく分業され,いわゆる勝ちパターンを構成する投手の重要度は言わずもがなだ.

 

 高校野球の話に戻るが,球数制限の導入は複数投手で戦わざるを得なくなる.よって複数投手の時代が訪れることは間違いない.上記の球数制限のデメリット,というか僕が思うマイナス面のような課題はあるが,この球数制限の導入は高校野球の転換期となる可能性がある.内野手を4人揃えなくてはならないように投手を少なくとも2~3人揃えなくてはならない時代となるのだ.

 公立高校の不利についてばかり触れていたが,強豪校も複数投手を育てることは容易ではない.また,どの投手をどの場面で起用するかといった采配の面も非常に重要になってくるだろう.プロ野球のように継投のタイミングが勝敗を左右するケースが増えるかもしれない.それはそれで新たなドラマを生むことになるはずだ.そしてチーム内で投手の競争が活性化することは間違いない.その点複数投手での戦いというのは高校野球の発展となる可能性がある.

 

 

試験的,段階的な導入を

 

 すこし触れたように僕は球数制限の導入には賛成だ.しかし,前例がない以上まずは試験的に導入というのが現実的だ.

 ここからは僕が考える試験的導入案について書いていく.まず,新潟県高野連が提案した1試合100球はいきなり導入するのは厳しいと考えられる.100球では9回を投げ切ることは非常に難しい.僕の提案は1試合150球だ.これで導入のハードルは下がるのではないだろうか.

 そして,もう一つの提案は選手権大会(夏の大会)以外での導入だ.どうしても3年生にとって最後の大会である.夏の選手権大会いでは一勝の重みが変わってくる.もちろんいずれは夏の大会でも導入すべきだと思うが,まずはそれ以外の大会で導入してはどうだろうか.

 

 昨夏の甲子園以降,球数制限についての議論が盛んになっていることを感じる.ようやく議論されるステージに到達したと言えるだろう.これからさらなる議論が必要になるのは間違いないが忘れてはならないのは選手ファーストの意識だ.大人の都合で無理な投球を続けさせるようなことはあってはならない.何より必要なのは選手をケガから守るためのルール作りだ.

 

 

【お知らせ】Twitterのアカウントを作成しました.是非フォローお願いします.

 

 以上です!最後まで読んでいただきありがとうございました。

スポーツ観戦に何を求める

こんにちは,しこしこ亭うどん(@shikoshikotei)です.

  

今回はスポーツ観戦に関するネタです.

 

f:id:shikoshikoteiudon:20190225115754j:plain

 

 

 

 

スポーツ観戦は好きか

  僕はスポーツ観戦がとても好きだ.自分がやっていた野球はもちろん,サッカーやラグビーも観る.特に野球やサッカーはある程度知識があるので,戦術的な面も考えながら観戦している.

  このように様々なスポーツが日々行われているが,中でもW杯やオリンピックなどの国際大会では国内の注目度も非常に高く,普段それらのスポーツを観ない人もオリンピックだけは観るということはよくあることだ.かくいう自分も,冒頭でスポーツ観戦が好きだと言っておきながらオリンピックのときしか観ないスポーツはいくつもある.

  しかし,自分も含め多くの国民が日本代表の勝利や活躍を期待し,応援するという点に間違いはないだろう.

 

 

代表選手を応援する心理

  オリンピックやW杯で,国民の大半は選手と知り合いではない.つまり,自分と選手との間には日本人であるということ以外接点がないのにも関わらず,なぜ我々国民は日本人選手の活躍に興奮するのだろうか.

  これはナショナリズムであり,同じ国籍の選手に対して共感や,感情移入を無意識にしているからだ.こうして僕たち日本人は,W杯での日本の勝利に熱狂し,オリンピックで日本人選手が金メダルを獲得する姿に喜びを感じている.

  スポーツとナショナリズムの関係は僕も興味があるトピックであるが今回の主題からは脱線するため機会があれば別の回で書いてみようと思う.

 

 

「感動をありがとう」への違和感

  注目度の高い国際大会で日本人や日本チームが活躍すると,報道では「○○選手,感動をありがとう」とか「日本代表,感動をありがとう」といった決まり文句を目にする.

  僕は以前からこの言葉に違和感がある.僕自身が日本の活躍に興奮しないわけでは決してないし,とても感動しているのも事実ではあるが,「感動をありがとう」にはどこか上から言っているような,観客である我々の傲慢さのようなニュアンスを感じる.

  選手のプレーや勝利に感動するのは自分自身であって,選手から感動を与えられているわけではないというのが僕の考え方だ.

  傲慢さというのは,この「感動をありがとう」に「選手が頑張ってくれたから私たちは感動出来た」というニュアンスを感じるからだ.

 

  その前提として,日本中が国際大会に便乗して「みんなで感動しようよ」みたいな空気を作りだしているような印象を受ける.

 

 

ロシアW杯 日本対ポーランドで感じた意識の違い

  2018年,サッカーのロシアW杯でのグループステージ3戦目,日本はポーランドに1-0負けているにも関わらず,後半自陣でボールを回し,試合を終わらせようとした.同時刻に行われていたコロンビア対セネガルの途中経過からこのまま試合を終わらせることが一番決勝T進出できる可能性が高いと判断したからだ.

 

  それに対し日本国内では,「スポーツマンシップに欠ける」とか「あんなやり方で決勝Tに進出してもうれしくない」といった批判が聞こえた.僕はこれらの批判が全く理解できなかった.もちろん逆転勝利で決勝T進出を決めることがベストであり理想的だが,物事は理想通りにはいかない.最適解を考えたときに,試合を終わらせる,ということがベターだと判断したのだろう.

 

  「スポーツマンシップに欠ける」というのは対戦相手へのリスペクト,相手に敬意を払うといったことができていない状況であると思う.その点あの試合では日本が自陣でボール回しを始めてからポーランドもボールを奪おうとしてこなかった.日本の意思だけでなく,ポーランドも試合を終わらせることに同意しているような状況であった.

  「あんなやり方で決勝Tに進出してもうれしくない」というのは選手の心情を全く分かっていない.選手はW杯に相当思い入れがあるはずだし,結果がすべてのプロスポーツの世界だ,どんな形であれ,一つでも上のステージに進みたいに決まっている.

 

  一方,プロスポーツにはエンターテインメントの面がある.その点あの試合は観客にとっては退屈な試合であったことは事実だ.しかし,日本代表が目指していたのはあくまで決勝T進出である.「スポーツマンシップ」には最後まであきらめないといった意味もあると思う.だが,決勝T進出という勝利を掴み取るためにポーランド戦を1-0の敗戦で終わらせるという選択をしたのだから僕の目には勝負を放棄したようには見えなかった. だから「あんなやり方で~」という批判は勝負をかけた判断をした選手や監督に対して失礼だと感じた.

 

  と前置きが長くなったが,僕はこの一件でスポーツをみる目線の違いを感じた.

  上記のような批判をしていた人には,その瞬間での感動を求めていた人が多いのではないだろうか.つまり今見ている試合が面白いかどうかを重要視するということだ.そういう視点で見ているとあの試合のような采配には批判的な意見を持つのかもしれない.言い換えると,プロスポーツのエンターテインメント性をかなり重視しているとも言えるかもしれない.

  一方,僕を含めあくまで決勝T進出こそが勝利だと考えていた人は,アスリート目線で観ていた人が多いのではないだろうか.つまり選手目線で,ベンチの一員に近いような感覚だ.もちろん出場の可能性がある本当のベンチ入りメンバーとは状況が異なるが,決勝T進出という目標を選手と共有しているような意識があれば上記のような批判的な感情は生まれにくいのではないか.

 

 

なぜスポーツを観て感動するのか

  スポーツ選手がファンに向けたメッセージを言うとき,「ファンのみなさんに感動を与えられるよう~」といったことが言われる.これはすばらしいことだし,もし僕が選手の立場だとしても言うのではないだろうか.

  しかし,選手はプレーしながら観客を感動させようとしている訳ではない.痺れる試合展開やピンチを救うファインプレーに観客は沸き,感動するのだ.少なくとも僕はスポーツのそのリアルな緊張感や勝利への執念に心を奪われている.

 

  冒頭で述べたように僕は「感動をありがとう」に違和感がある.しいて言うなら「感動しました」ではないだろうか.

  それ以上に感動,感動みたいな空気が嫌いなのかもしれない.スポーツ観戦の楽しみ方は人それぞれだし,僕はスポーツファンとして,一人でも多くの人がスポーツに関心を持ってくれればいいなと思っている.

  僕は天邪鬼のところがあるため,スポーツに絡めて視聴者を感動させよう,みたいな意図のある映像は好きではない.あくまでスポーツのリアルな緊張感が好きなのだ.これはスポーツをやっていたからそう思うのかもしれない.

 

 

  最後に,僕は日本のスポーツ界がどんどん盛り上がってほしいとおもっている.まだまだ勉強不足だがこれからもスポーツに関して書いていこうと思う.

 

【お知らせ】Twitterのアカウントを作成しました.是非フォローお願いします.

 

 

以上です!最後まで読んでいただきありがとうございました。

恥ずかしくて飲食店で写真が撮れない

 

こんにちは,しこしこ亭うどん(@shikoshikotei)です.

  

今回は僕の自意識過剰行動についてのネタです.

共感する人がいるかどうかは知りません.

 

f:id:shikoshikoteiudon:20190217225431j:plain

 

 

 

 

 

写真を撮るのは当たり前?

 

 「インスタ映え」という言葉をあちこちで見聞きするようになって久しいが,最近はどこへ食べに行ってもそこらじゅうで出てきた料理をスマホで写真に収める人がいる.

 これは今や当たり前の光景だが,僕は未だに料理の写真を撮ることを躊躇してしまう.

 それどころか,友人が撮っているところをみるとちょっと恥ずかしい感覚すらある. 

 

 

撮るために食べることは理解できない

 

 写真を撮るのを躊躇してしまう僕だが,決していつも撮りたくないという訳ではない.実際友人がSNSに投稿したお店が気になったり,おいしそうだと思ったりすることは往々にしてあるし,自分もせっかく来たんだから友達に伝えたいなあという気持ちは少なからずある.

 ただ,そう感じるのは有名店や旅行先であって,何でもかんでも写真に撮ったり,写真を撮るために食べるような,写真ありきで食事をするというのは理解できない.

 食事についでというかあくまで記録として撮るのは分からなくはないが最近は写真を撮るために飲食店足を運ぶ人がいるようだ.

 食べ物は口で食べるものだが,なんだか目やカメラで食べているみたいだ.

 

 

一人でいるから撮れないのか

 

 ところで僕は一人でどこかへ出かけたり,一人で外食したりができるタイプなので一人で飲食店に入ることがしばしばある.

 そうなるともう写真はお手上げだ.せっかくおいしいものを食べても写真に収めることはできない.

 口頭や文章で伝えればいいや,写真はネットで検索すればあるやろ,ネットにある写真の方がきれいやろ,と思ってしまう.

 これは一人で来ているからなのか.友達と旅行に行ったときには友達が撮っていたら自分も撮ることがあるが,一人だとなかなか他人の目が気になって躊躇してしまう.

 

 

店のためには撮った方がいい?

 

 そもそも料理の写真を撮ることは店側からしたらどうなのか?

 僕は飲食店を経営したこともないし,働いたことすらないので全く分からないが少なくともいい評判がSNSなどを通して広まっていくのはとてもいいことなはずだ.特に最近はTwitterを運営している飲食店も多くある.

 逆に自分の店をボロクソに書かれたらたまったものではない.とんだ風評被害だし場合によっては営業妨害とまで言える.

 少なくとも良かったー!とか美味しかったー!と書く分には店にとってはプラスになりそうだ.

 

 

結局自意識過剰,知ったこっちゃない

 

 そもそもこれだけ写真を撮ることが一般的になっているのに躊躇してしまうというのは結局ただ自意識過剰なだけだ.

 僕は観光地に一人で行った時にはそれなりに写真を撮るがそれも他人の目を気にしながら撮ってしまう.

 その自意識が飲食店だとさらに過剰になるのは他人が近くにいるからだろう.

 どっちにしろ,僕が写真を撮っているところなんか人は見ていないし,見ていたところで何とも思わない.

 要は撮りたいときは撮ればいいし,撮る必要ないなと思えば撮らなきゃいいってこと.

 

 そんなに人は自分のことを見てないし,気になってもないぞ!

 

 

食べ物の撮影に感じる罪悪感

 

 これは個人的に感じていることなのだが,どうも料理の写真を撮ることに罪悪感がある.共感してくれる人はいるのだろうか.

 うまく言葉に表せないがなんというか,母親に怒られそうというか,行儀のいいものではないというか,なんだか怒られそうな感覚がある.

 これは両親のしつけというか教育の影響なのか.その影響からか,友人が料理の写真を撮ってのを見ても少し引け目を感じてしまう.

 こればっかりはなかなか抜けない気がする.

 

 このなんだか怒られそうな感覚,分かる人いるかなあ

 

 

最後に

 

 ということで飲食店で料理の写真を撮ることについてであったが.その行動の良し悪しはともかく他人の目を気にするようなことではないよ!お前のことなんか誰も見てねーぞ!ということ.

 スマホの普及で誰でもすぐに写真が撮れる時代だがくれぐれもマナーを守って撮影してほしいと思う.

 

 ただやっぱり僕は食べ物を撮ることには罪悪感を感じてしまうなー.

 

 

 

【お知らせ】Twitterのアカウントを作成しました.是非フォローお願いします.

 

 

 以上です!最後まで読んでいただきありがとうございました。